松山句碑めぐり(湯築B)

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【15】道後湯月町 円満寺(湯築)

【28】散と見し幻消て花に月(奥平鶯居)

2007年7月29日行軍@(道後村めぐり(2))

この碑そのものは、梅滴(鶯居の俳号)翁の墓の裏面にあるらしいのだが、かずまる特攻隊は一般のお墓には踏み込まない主義である。



【29】狂平の仮名詩碑(臥牛洞狂平)

2003年11月23日行軍A(俳句の里・道後(8))

安政2年に湯がとまった時、この大地蔵に祈願したところ、再びお湯が湧き上がったことから、温泉ゆかりのお地蔵様であるが、見かけが少 々不気味ではある。
碑中に「蕉下獅子菴」とあるが、これは芭蕉の門人各務支考のこと。臥牛洞狂平はその門人であり、松尾芭蕉の影響は松山でも大きかったことが伺える。


【16】道後湯之町 湯神社(湯 築)

【30】道後なる湯の大神の御社のもとにぬる夜となりにけるかな(与謝野晶子)

2007年7月29日行軍@(道後村めぐり(7))

道後温泉の守り神として、大国主命と少彦名命が祀られ、昔から道後の湯が止まると、ここで湯祈祷が行なわれていた。なお、与謝野晶子は、この句の後ろに 「鮒屋旅館にて」と書いたらしいが、当の「ふなや旅館」では全く痕跡なし。

【17】道後町2丁目〜道後喜多町 俳句の道(湯築)

【31】春光や三百年の城の景(酒井黙禅)

2007年5月26日行軍@(道後村めぐり(3))

道 後築でも述べたが、この句碑、実際には東京青山の青南小学校にある。「東京都港区ゆかりの人物データベース」の中で「この句は昭和6年(1931)大 学生だった草田男が母校・青南小学校を訪問した際に詠んだものです。」と書かれている。が、一方で「大正14年松山中学、松山高等学校より東大独文科に入 学」とあるから、結構転居していたらしい。本名は中村清一、父親は当時の清国福建省アモイの日本領事館で清国領事だったらしく、4歳の時に母親の故郷であ る松山へ帰っている。

【18】道後多幸町(湯 築)

【32】伊豫と申須国あ多ゝ可耳温泉和久(森盲天外)

2009年6月7日行軍D

県民文化会館から大黒屋までの間にどどっと並んでいる。


【33】道後温泉一洵老とずんふり湯の中の顔と顔笑ふ(種田山頭火)

2009年6月7日行軍D


【34】嘉永七年十一月四日大地震あり道後温泉湧出止む十二月廿四日安政と改元いろの歴史道後の湯はつき春(前田伍健)

2009年6月7日行軍D


【35】永き日やあくびうつして分連行久(夏目漱石)

2009年6月7日行軍D


【36】湯上りを暫く冬の扇かな(内藤鳴雪)

2009年6月7日行軍D


【37】ほしひまゝ湯気立たしめてひとり居む(石田波郷)

2009年6月7日行軍D


【38】温泉め久りし天戻りし部屋に桃の活け天ある(河東碧梧桐)

2009年6月7日行軍D


【39】湯の町の見えて石手へ遍路道(柳原極堂)

2009年6月7日行軍D


【40】馬叱る新酒の酔や頬冠(正岡子規)

2009年6月7日行軍D


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