松山句碑めぐり(番町@)

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 さすがは「番町」最大箇所となる19箇所を誇る。

【01】二番町4丁目 市役所前(番町)

【01】さくら活けた花屑の中から一枝拾ふ(河東碧梧桐)

2003年10月25日行軍A(俳句の里・城下(1))

城下コース堂々1番の句碑。現在は地下駐車場への階段に隠されて少々見えにくい。それより、なぜ一番が河東碧梧桐なのだろうか。確かに、肖像画を見ると、 彼が一番凛々しい。が、それで1番のはずはあるまい。元は高浜虚子の句と同様松山刑務所内にあったものを、彼の17回忌の際に入所者たちが運んだものだと 言う。

【02】一 番町4丁目 NTT前番町

【02】わかるゝや一鳥啼て雲に入る(夏目漱石)

2003年10月25日行軍A(俳句の里・城下(2))

これは夏目漱石が、明治29年に熊本の第五高等学校教授として、松山を去るときに読まれた句である。夏目漱石が松山に滞在していた時間は短く、小説「坊っ ちゃん」が書かれたのも、松山を離れてから10年程度経ってからといわれているが、その一瞬の時が松山を坊っちゃんの街として印象付けさせたのだからすご いものである。もっとも、小説「坊っちゃん」の中では、松山はむちゃくちゃに書かれていて、後日正岡子規に「君のふるさとをひどく書いて申し訳なかった」 旨の書簡を送っているという。
 さて、この場所であるが、現在のNTT四国支店は、夏目漱石が松山へ赴任した当時は松山中学であった。つまり、小説「坊っちゃん」の中で、坊っちゃん列 車に「ごろごろと5分ばかり乗って」降りた駅から人力車でやってきた場所がここであったということになる。
しかし、ここである矛盾が発見される。のちに、小説の中では、中学校からぶらぶらとしながら帰宅する場面が出てくる。「それから学校の門を出て、すぐ宿へ 帰ろうと思ったが、帰ったって仕方がないから、少し町を散歩してやろうと思って、無暗に足の向く方をあるき散らした。県庁も見た。古い前世紀の建築であ る。」現在、NTT四国支店と県庁は国道11号をはさんで向かい合っている。現在の県庁本館は昭和4年に建てられたが、その前の建物も現在の位置にあっ た。つまり、なぜわざわざ「県庁も見た」ということになったのだろうか。

【03】二番町4丁目 番町小学校番 町

【03】松風会ゆかりの松山市立高等小学校跡

2003年10月25日行軍A(俳句の里・城下(3))

正岡子規直系の日本派俳句結社「松風会」は当初松山市立高等小学校教員が会員だったこともあり、その跡地であるこの場所に建てられた。色々な意味で、この 場所は愛媛の学問、文化の中心だったのであろう。
しかし、ここで再び疑問が生じる。松山市若草の合同庁舎前にある碑には「愛媛教育草創の地」と書かれている。かつては、ここに「師範学校」があって、小説 「坊っちゃん」にもでてくる。ちょうど主人公「坊っちゃん」が喧嘩をした学校である。が、俳句の里巡りでは、この「愛媛教育草創の地」に関する記述がな い。ここで私が悩むようなことではないのだろうが、なんだか気になる。

【04】道後湯之町 放生園番 町

【04】夏目漱石ゆかりの旅館「きどや」跡

2003年10月25日行軍A(俳句の里・城下(4))

番町小学校から南へ少し下がると、同じ名前の飲食店がある。その東側あるのが、小説「坊っちゃん」で主人公が最初に泊った「山城屋」のモデルとなった旅館 である。
夏目漱石自身もこの宿屋に泊まっている。つまり、小説の中で松山に到着した坊っちゃんは、一度松山中学に行って、この旅館にやってきた。

【05】三番町4丁目(番 町

【05】河東碧梧桐誕生地(静渓邸の跡)

2003年10月25日行軍A(俳句の里・城下(5))

4番からはそのまま少し東側に行くとある。このような碑が街の中いたるところにあるというのがすごいと思う。
河東碧梧桐(本名・秉(へい)五郎)は、明治6年2月26日、父静溪の五男として、ここに生まれた。彼が17歳の時に子規がここへやってきて、彼とキャッ チボールをしたという。正岡子規が野球殿堂入りした今、ここが日本における野球発祥の地かもしれない
愛媛県は野球が盛んだが、特に高校野球の活躍が目覚しいことは、このような土壌があったからだと思う。まあ、一方では西日本では日没が遅いと言うことも一 理あると思う。夜間照明が当たり前になった今、北日本や東日本の活躍が目立つようになったが、愛媛の高校野球は、それでも時に全国に名を残す。野球の土壌 が消えてなくならない証拠だ。

【06】三 番町3丁目番町

【06】大原観山(おおはらかんざん)邸跡

2003年10月25日行軍A(俳句の里・城下(6))

大原観山は本名有恒で加藤家の次男として三津御舟手加藤重孝の次男として出生した。姉艶枝が嫁いだ大原恒固との間に子供がなかったため、観山が養子となっ た。大原観山と妻重との間にできた長女八重が正岡家へ嫁いで正岡子規を生んだ。そう書けば正岡子規の生誕は偶然のように思われるが、生誕に関しては人皆偶 然だと思う。だが、偶然にしても、当時の松山には俳句に心を寄せる人が多かったものである。

【07】二番町3丁目 元料亭天平前番町

【07】夏目漱石寓居・愚陀仏庵の跡

2003年10月25日行軍A(俳句の里・城下(7))

在 万翠荘の上にある愚陀仏庵は復元されたことは知っていたが、なんとなく現在の東雲学園のあたり、つまり大街道の北側にあるような印象があった。が、「きど や」から移ってきた愛松亭と混同していた。夏目漱石はそこからこの場所へ引っ越してきていた。そこへ従軍吐血して療養後の正岡子規が転がり込んで、52日 間2人が過ごしたということはあまりに有名である。
余談だが、愚陀仏庵が崩壊した後、ここへ復元しようとする方々がおられるが、この用地をどうせよというつもりなのだろうか?

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