【18】浦屋雲林邸跡
2003年10月13日行軍A(俳句の里・城下(1)) 浦 屋雲林(本名寛制)の屋敷は700坪という広い屋敷の庭には約210坪の大きな池があったという。現在浦屋雲林邸はその跡をとどめていないというが、その 跡地が現在のNTT社宅というのがものすごく納得できる。残っていればよかったな、と思った場所には、役所(NTTも元役所)や農協関係の建物が立つから な。伊予鉄道の跡地の場合は愛媛銀行ができるのは何故だろう。勝山町だけならともかく、立花駅南までもが・・・ |
|
【19】粟の穂のこゝを叩くなこの墓を(正岡子規) 【20】正岡家墓地跡
2003年10月13日行軍A(俳句の里・城下(37)) 正岡子規は明治28年9月から10月にかけて、松山市内を4回散策している。その内容は、この後結構出てくるのであるが、この句は、その四回目に今出の村上霽月を訪ねていくときに立ち寄ったものである。ここで、住職で俳人の一宿和尚を誘ったが、所用のため断られている。 |
|
【21】涼しさや西へと誘ふ水の音(内海淡節)
2003年10月13日行軍A(俳句の里・城下(24)) 「内 海淡節氏は文化7年(1810)に松山藩士の家に生まれ、桜井梅室氏に俳諧を学び、30歳で京都へ行き、晩年帰松したという。松山では現在の二番町に住ん でいて、家の前を西向きに流れる水路があったという。」この水路の向きと西方浄土をかけた辞世の句なのだそうだ。するどい!いきなり感心する。 |
|
【22】風呂吹を喰ひに浮世へ百年目(正岡子規)
2003年10月13日行軍A(俳句の里・城下(38)) 前の句は「明月和尚百年忌」と前書きがある。子規が1896年に読んだ句で、明月和尚(1718〜1797)は円光寺で修行をしたという。「風呂吹」とはどうしても、「ふろふき大根」を思い出してしまうが、冬の季語なのだそうだ。【23】冬さひぬ蔵沢の竹明月の書(正岡子規)
2003年10月13日行軍A(俳句の里・城下(38)) |
|
【24】辛かろうおれも乞食を五十年(村上桂山)
2009年6月14日行軍D ある方のブログにこのようなことが書かれていた。「10円手相のおじいさんのことは、検索してもさすがにわからないだろうと思いつつ、この記事を書くにあ たって一応調べてみた。すぐに「村上桂山さん」というお名前が判明。OL時代のワタクシが、繁華街でたまにお見かけしていた数年後には亡くなられ、彼を偲 んで置かれたお地蔵さんが、その繁華街にあるそう。そのお地蔵さんの裏側には「つらかろう おれも乞食を五十年」と刻まれているとか。それを知って、何だ か切ない気持になった。」 |
|
【25】最も愛情のあるものは最も勇敢なり(桜井忠温)
2009年6月14日行軍D 桜井忠温は、明治後半から昭和期の陸軍軍人,軍事 物作家。元の国立ガンセンター跡地にある。 |
|