【08】なつかしき父の故郷月もよし(高浜年尾)
2003年10月25日行軍A(俳句の里・城下(9)) 作者は高浜虚子の長男で、昭和26年3月号から「ホトトギス」を主宰した。そして、同誌1000号発行半年前の昭和54年10月26日に78歳で没した。【09】秋晴の城山を見てまづ嬉し(今井つる女)
2003年10月25日行軍A(俳句の里・城下(12)) 今井つる女は高浜虚子の次兄池内政夫の三女、後に旧波止浜町長今井五郎と結婚する。妻曰く「この句が一番判りやすい」でも、判りやすくて、思いが人に通じるのであれば、それが一番の秀作だ、と思う。この裏手に愚陀仏庵がある。ちょうどお茶の席が設けられていたが、かずまるがいては落ち着かないため、辞退した。 【10】城山や筍のびし垣の上(柳原極堂)
2003年10月25日行軍A(俳句の里・城下(8)) 柳原極堂没後一周忌をしのんで建てられた句碑。色々な書物を見ていると、柳原極堂は自分の句碑を建てることをよしとせず、それよりは子規を・・・という人だったらしい。【11】夏目漱石ゆかりの愛松亭跡 【12】夏目漱石の書簡碑
2003年10月25日行軍A(俳句の里・城下(10)、(11)) 小説坊っちゃんの中で、坊っちゃんは「山嵐」の勧めで、「山城屋」から「町はずれの岡の中腹にある家で至極閑静だ。主人は骨董を売買するいか銀という男」の場所へ引っ越してくる。夏目漱石はこの場所にあったという愛松亭に住んでいたから、それをモデルにしたのであろう。現在この道は万翠荘へ続く一本道となっている。が、かつては結構民家が密集していたのかもしれない。 小説坊っちゃんでは、主人公がここから「住田」と表現された道後温泉へ列車を使って出かけている。当時は大街道から道後温泉まで後に伊予鉄道に買収される 「道後鉄道」が路線を持っていた。この頃の地図を見ると、大街道から東側は急に人家がとぎれたような表記になっているから、あたりにさえぎるものもなく、 道後温泉へと向かっていたに違いない。 だが、小説の中で、一度だけ「住田」からの帰りに「古町」で下車したという記述がある。当時の道後鉄道は、先の大街道〜道後間の他に道後から愛媛大学の北側を通って、木屋町電停へと抜け、現在の萱町六丁目電停(当時は「三津口」)までの路線も持っていた。 小説坊っちゃんの中では、松山の実際にある地名が出てくるのは珍しい。まるで、ノストラダムス「1999年7の月」のようである。だから、夏目漱石として は、意図的に一番町を「古町」、松山中学を先の「師範学校」としたのではないか、とかつて意見をしたことがある。そうしたら、そのスジの真面目な先生方か ら総すかんをくらったことがある。 ちなみに、この所管の内容は「拝呈出立の切は色々御厚意を蒙り奉万謝候、私事去る七日十一時発九日午後二時頃当地着仕候間乍憚御安意被下度候赴任後序を 以って石川一男氏に面会致し早速貴意申述候間左様御承知被下度候同君事ハ今回石川県に新設の中学校へ更任相成明日当地出発の筈に御座候小生就任来既に四名 の教師は更迭と相成石川君も其一人に御座候何事も知らずに参りたる小生には余程奇体に思ハれ候 教授後未だ一週間に過ぎず候へども地方の中学の有様抔は東 京に在って考ふる如き淡白のものには無之小生如きハーミット的の人間は大困却致す事も可有之と存候 くだらぬ事に時を費やし思ふ様に勉強も出来ず且又過日 御話の洋行費貯蓄の実行も出来ぬ様になりはせぬかと〓かに心配致居候 先は右御報まで余は後便に譲り申候時下花紅柳緑の候謹んで師の健康を祈り申候頓首四 月十六日神田先生東京麹町区飯田町神田乃武様 親展愛媛県松山市一番町愛松亭にて夏目金之助 四月十六日」である。 |
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【13】わかるゝや一鳥啼て雲に入る(夏目漱石)
2003年10月25日行軍A(俳句の里・城下(40)) 誕 生の地というよりもお墓かと思った。正岡子規の出生場所は、伊予国温泉郡藤原新町とあり、後、松山市新玉町1丁目八番九番地、現、花園町3番5号とある。 現在の新玉小学校はかなり西へ移っている。また、私が以前住んでいた宮田町も新玉校区だったため、新玉といえばどうしても、現在のコミュニティセンターと 大手町を中心とした場所という気がする。が、そういえば、唯一新玉と呼ぶ地名がある。コムスの隣にある新玉公園である。そういう気でいたから、なんでここ が新玉公園?と思ったものである。かつての新玉はもっと東側の意味を持っていたようである。 |
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【14】城山の浮み上るや青嵐(正岡子規)
2003年10月13日行軍A(俳句の里・城下(39)) 坊っ ちゃん列車は、まさしく小説坊っちゃんの中で「停車場はすぐ知れた。切符もわけなく買った。乗り込んでみるとマッチ箱のような汽車だ。ごろごろと5分ばか り動いたと思ったら、もう降りなければならない。」と紹介された汽車を復元したものである。平成13年10月にディーゼル機関車として復元、さらに翌年8 月には2両目の機関車が導入され、乗車賃も1000円から300円に値下げされた。当時我々は毎週坊っちゃん列車に乗車していたものだ。 |
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【15】くれなゐの梅散るなへに故郷につくしつみにし春し思ほゆ(正岡子規)
2003年10月13日行軍A(俳句の里・城下(27)) 正 岡子規生い立ちの家跡ということで、17歳まで住んでいた。子規堂の前に「旅立ち」と子規が旅立つ姿の像があるが、まさにあれである。あの子規の姿は実は ここでなされたものだ。当時は車通りが少なくてよかったことだろう、というより、こんな道はなかったはず。子規が今のこの場所を見たら、どう思うのだろう か。 |
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【16】我ひとりのこして行きぬ秋の風(野間叟柳)
2003年10月13日行軍A(俳句の里・城下(26)) こ の場所も命がけである。なにを書いているのかと思えば、「野間叟柳は、この碑からほど近くの市内北柳井町179に、子規より1年おくれて生まれた・・・」 ちょっと待て!「この碑からほど近くの」とはどういう意味だ。ここに碑がある必要性はなんだ?説明してくれ!我々はなんで命がけで俳句の里巡りをせにゃな らんのだ?と言ったところではじまらない。信号の合間を縫って拝みに行く。 |
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【17】正岡子規母堂令妹邸跡
2003年10月13日行軍A(俳句の里・城下(28)) 片側3車線ある中の川通りの中央分離帯を行くことになる。正岡子規母堂令妹邸跡だから、昔はこの場所にあったのですよ、ということなのだろうが、とにかく ここの碑へ行くには覚悟がいる。松山市教育委員会によると、場所を示すものですから、ということなのだろうが、行くものにとっては命がけになる。 |
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